森本レオさんは、ジロキチが開店する前からジロキチの入っている高円寺ビルの5階に住んでいました。私にとってレオさんは、ジロキチと昔からご縁のある方であり、高円寺の街でときどきお見かけする、親しみのある存在でした。
2025年9月、ジロキチの50年をまとめた本(『次郎吉 to JIROKICHI -高円寺のライブハウスが歩んだ50年』)のために、レオさんにインタビューをさせていただく機会がありました。ジロキチ開店当初のこと、ジャズピアニスト本田竹広さんとの思い出、上々颱風のステージ、そして高円寺という街のこと。レオさんは、実にたくさんのことを覚えていました。その日2時間のインタビューは、テキストにして13000文字。本では2ページ約2000文字に要約されています。その要約されていない部分もあらためて読み返し、レオさんの言葉を思い出して、ここに書き残しておきたいと思いました。以下は、2025年のインタビューを中心に、さらに時代を遡り、レオさんとの記録と記憶を綴ってみたいと思います。

ジロキチが生まれた日、5階にいたレオさん
ジロキチが開店したのは1975年2月。その少し前、レオさんはすでに高円寺ビルの5階に住んでいました。ある日、階下へ下りていくと、何やら引っ越し作業をしている人たちがいたので、「何するの?」と尋ねると、「ジャズ喫茶やるんです」という返事。
ところが、まだテープレコーダーもないという。そこでレオさんは、ご自分が持っていたティアックのいい機材を譲ってくださったのだ。そう、これはジロキチ開店直前のお話。
いっとき、レオさんの部屋が出演者の休憩場所にもなっていたという。
その部屋を訪れていたミュージシャンのひとりが、ジャズピアニストの本田竹広さんでした。ジロキチの開店準備をしていた頃、まさか同じビルの5階に、こんなにも音楽を愛する人が住んでいたとは…。レオさんとジロキチのご縁は、そんな偶然から始まりました。
本田竹広さんと、レオさんの部屋のレコード
本田竹広さんは、ジロキチの初期から出演してくださっていたジャズピアニストです。レオさんは本田さんのことを、引っ込み思案で、口数の少ない人だったと振り返っています。あるとき、レオさんが本田さんのピアノをいいなと思い、自分の部屋にもいいレコードがあるよ、と声をかけました。それから本田さんは、レオさんの部屋へレコードを聴きに来るように。レオさんは当時、オーディオにも凝っていて、珍しいジャズのレコードをたくさん持っていたそうです。
インタビューでは、本田さんがあるピアニストのレコードを聴いて、すっかり黙り込んでしまったときのことを話してくださいました。シンプルな音を繰り返しながら、少しずつ音楽が育っていく。同じ音を叩いているようなのに、聴いているうちに、いつの間にか想像もしなかった世界へ連れていかれる。レオさんは、そんな音楽の素晴らしさを、本田さんと語り合ったのだ、と。そして、音楽とは何なのか、ジャズとは何なのか、という話になり、レオさんは、ジャズが生まれた歴史や、音楽のルーツについて、本田さんといろいろな話をしました。その後、本田さんはアメリカへ渡り、さらにさまざまな土地を巡って帰ってきた。それから久しぶりに聴いた本田さんのピアノは、以前とは変わっていたという。
「もっと深いところから音を探しに行くような感受性になって。変わったなって。」レオさんは、そんな本田さんの変化を、嬉しそうに話してくださいました。
そして、インタビューの中で何度も繰り返していたのが、音楽は探し物であり、自分探しなのだということでした。本田さんは、音楽を通して、ずっと何かを探し続けていたのかもしれません。レオさんもまた、その探し物に深い関心を寄せていたのだと思います。

「高円寺北二丁目のタイム・トンネル」
ジロキチの30周年を迎えた2004年、レオさんは記念パンフレットに「高円寺北二丁目のタイム・トンネル」という文章を寄せてくださいました。本田竹広さんの誕生日コンサートを聴きに、久しぶりにジロキチを訪れたときのことを綴ったものでした。レオさんは、本田さんとは30年近く会っていなかったといいます。その本田さんが、脳梗塞で二度も倒れたと聞き、居ても立ってもいられず、ジロキチへ駆けつけた。
久しぶりに開けたジロキチの重い扉。階段を下りていくと、懐かしい匂いとともに、若かった頃の思い出がよみがえってくる。そして、ステージに現れた本田さん。病を経て、思うように動かない身体でピアノに向かい、ゆっくりと鍵盤に手を下ろしていく。初めは重たげだった音が、少しずつ息づき始める。
その演奏を聴きながら、レオさんは、かつて5階の自分の部屋で、ひたむきにレコードを聴いていた若い本田さんの姿を思い出していた。あの部屋で一緒に音楽を聴き、語り合った時間。それから長い年月を経て、再びジロキチのステージで本田さんのピアノを聴く。
レオさんにとって、ジロキチの階段は、まさに思い出へと続くタイム・トンネルだったのでしょう。その文章の中で、レオさんは、「音楽というのは多分、出逢えた夢・出会いそびれた夢に対する“祈り”だ」と表現しています。
本田さんのことを、レオさんは本当によく覚えていらした。本田さんがレコードを聴いて黙り込んだことも、アメリカへ行くと告げに来たことも、帰国後のピアノの音が変わっていたことも。そして晩年の本田さんが、ライブの後に童謡「七つの子」を弾いていたことまで。20年以上の時間を隔てた二つの記録の中で、レオさんは変わらず、本田さんの音楽を大切に思っていらした。そしてその30周年の寄稿では、こんな言葉で結ばれています。
「次郎吉という名の、タイムトンネルに感謝だ。」
レオさんにとって、ジロキチは、音楽とともに過ぎ去った時間や、懐かしい仲間たちに再び出会える場所だったのかもしれない。
「これだよ!」上々颱風との出会い
今回のインタビューで、もうひとつ印象的だったのが、ジロキチの出演者の中で、特に印象に残っている人はいますか、と尋ねたとき「上々颱風!」と、すぐに思い出してくださいました。上々颱風は、かつてジロキチにたびたび出演してくれていたバンドです。
ステージに提灯を飾ったり、にぎやかな演出をしたり、ジャズやブルースが中心だったジロキチに、また違った風を吹き込んでくれたバンド。
レオさんは、そんな上々颱風のステージを観て、とても喜んだという。ジャズという枠に縛られるのではなく、音楽はもっと自由で、もっといろいろなものがあっていい。上々颱風のステージを観て、音楽に対する考え方が根本からひっくり返るような楽しさを感じた、と話してくださいました。
「音楽ってやっぱり血を温めて、心をたぎらせ、明日の幸せを育てていくみたいな文化だという気がするんだよね。」と。
レオさんは、音楽をジャンルで分けることよりも、その音楽がどこから生まれ、どんな思いを伝え、聴く人の心をどう動かすのか、ということを大切にされていたのだと思います。ジャズのルーツについて語るときも、本田さんのピアノを語るときも、上々颱風のステージを思い出すときも、そこには一貫した思いがあったように感じます。音楽は、人間が生きていく中から生まれてくるものなのだということ。
そして、ジロキチが、ジャズだけにとどまらず、上々颱風のような音楽も届けてきたことを、レオさんは喜んでくださっていた。それは、ジロキチにとって、とても嬉しい言葉でした。

ジロマスと、北海道からの電話
今回のインタビューでは、ジロキチの初代マスター荒井誠、私の父のことも話してくださいました。父は50歳のとき、オーストラリアでディジュリドゥという楽器に出会い、その後、自ら演奏するようになりました。レオさんも、父がオーストラリアから帰ってきたときのことを覚えていました。
父がディジュリドゥを持ち帰り、レオさんの前で吹いてみせたこと。レオさんが「すごいじゃん」と言うと、父は「吹く?」と楽器を差し出したそうだ。レオさんは「無理だよ」と笑って断ったという。その話を聞いて情景が目に浮かび、父らしいなと思いました。
父はその後もディジュリドゥを吹き続け、本田竹広さんや山下洋輔さんをはじめ、さまざまなミュージシャンと共演するようになりました。レオさんも、そんな父の演奏を聴いてくださっていました。そして、話は父が北海道へ移り住んだ頃のことになりました。父は2007年に北海道へ移り住み、2011年に亡くなりました。
レオさんは、北海道にいた父から、夜中に電話がかかってきたことを話してくれました。
最初の頃は、新しい土地に来たことを楽しそうに話していた父。ところが、しばらくすると、帰りたい、寂しい、と電話でこぼすようになっていった。レオさんは、そんな父に、いいところだと言っていたじゃないか、そっちでジャズ喫茶をやればいいじゃないか、と声をかけてくださったそうです。父は、普段弱音を吐く人ではなかった。だからこそ、レオさんも、よほど寂しかったのだろうと、当時のことを思い返していました。
その話を聞きながら、父は北海道でどんな気持ちで暮らしていたのだろう、と考えました。新しい土地で新しい生活を始めても、やはり高円寺やジロキチのこと、長年付き合ってきた仲間たちのことを思い出していたのかもしれない。そして、そんなときに電話をかけた相手のひとりが、レオさんだった。
2025年のインタビューを終えてしばらくしたある日、レオさんから、こんなメッセージをいただいた。
「マスターが突然旅立って、ディジュリドウをもってかえってきたのも、故郷探し遊びだったかもしれないね。北海道へいったのもの。あーあ。」
レオさんが父のことを、そんなふうに思い出してくださったこと、今回のインタビューで、父とレオさんの間にあった、私の知らなかった時間を少しだけ知ることができたような気がしました。

レオさんが愛した、高円寺という街
レオさんは、ジロキチが開店する前から、50年以上にわたって高円寺で暮らしてこられました。高円寺の街を歩いている姿を見かけたことのある人も、きっと多いと思います。
私も何度か、街でレオさんをお見かけしました。
70年代からずっと、この街で暮らしてきたレオさん。2025年のインタビューでは、高円寺の昔の街並みや、そこに集まっていた人たちのことも、たくさん話してくださいました。
レオさんが高円寺に住み始めた頃は、学生運動が盛んな時代でした。新宿では学生たちが激しく対立していた一方、高円寺には、考え方が違っても喫茶店でお茶を飲みながら話し合うような文化があったという。レオさんがよく通っていたのは、南口にあった「ロバ」という喫茶店。そこには、学生やアーティストたちが集まり、音楽や芸術、さまざまなことについて語り合っていた。レオさんはお酒が飲めなかったので、コーヒーで乾杯していたそうです。お気に入りのレコードを持ち寄り、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンの珍しい音源をかけてもらう。音楽の話から、その音楽が生まれた土地や文化の話へと広がっていく。ジャズも、浪曲も、フラメンコも、ルーツをたどればどこかでつながっている。
そんな話をしているうちに、考え方の違う人たちも、いつの間にか仲良くなってしまう。
レオさんは、当時の高円寺には、そんな面白さがあったと語ってくださいました。音楽や芸術が好きな人たちが、気取らずに集まり、語り合う。そこには、レオさんがジャズに感じていた、垣根を越えて人と人がつながる楽しさと、どこか共通するものがあったのでしょう。高円寺の喫茶店で語り合っていた人たちも、やがてひとり、またひとりと街を離れていった。レオさんは、昔の仲間たちがいなくなってしまったことを、少し寂しそうに話してくださいました。それでも、高円寺の街には、今も変わらず好きなところがあるという。
それは、道の狭さだった。
高円寺の道は狭い。人とすれ違うときには、自然とどちらかが道を譲る。レオさんは、そんな何気ないことの中に、人を思いやる感受性が育まれているのではないか、と話してくれました。長い間、この街を歩いてきたレオさんだからこその視点だと思いました。高円寺の道が狭いことを、私はそんなふうに考えたことがなかった…。でも、レオさんの言葉を聞いてから、街の見え方が少し変わった気がします。すれ違う人に道を譲る。その小さなやりとりの中にも、この街らしさがあるのかもしれない。

音楽を聴くことも、街を歩くことも
レオさんのお話を聞いていて、何度も感じたことがあります。それは、音楽に対しても、人に対しても、街に対しても、いつもその奥にあるものを知ろうとしていらしたこと。音楽を聴けば、その音が生まれた歴史を知りたくなる。演奏する人が、どんな人生を歩み、何を探しているのかを感じ取ろうとする。街を歩けば、狭い道を譲り合う人たちの姿に目を留める。
レオさんは、インタビューの中で、音楽表現とは、その人自身のドキュメントなのだと話してくださいました。そして、音楽を聴くということは、その人のドキュメントの中に、自分自身のドキュメントをそっと溶かし込んでいくことなのではないか、と。
本田竹広さんのピアノを聴きながら、レオさんが思い出していた若い頃のこと。上々颱風のステージに心を躍らせたこと。高円寺の喫茶店で、仲間たちと音楽や芸術について語り合ったこと。ジロマスからかかってきた、北海道の夜中の電話。レオさんが語ってくださったひとつひとつの思い出は、音楽や街の話であると同時に、レオさんご自身が歩んでこられた人生の記録でもあったのだと思う。
「高円寺ありがとう」
インタビューの終盤、レオさんに、これからの高円寺についてもお聞きしました。
「商店街を歩いていると、今もこの街を楽しもう、育てていこうという人たちの気配が感じられて、ほっとするよ。あまり銀座通りのようにはなってほしくないな。今の路地や商店街を、そのまま残しておいてほしい。東京のあちこちへ行ったけれど、こんなにも街の匂いがして、田舎の路地裏商店街のような雰囲気が残っているところはめったにないよ。高円寺から荻窪に至る町並木は、本当に宝物だと思う。」
レオさんは、そんなふうに話してくださいました。
そして、最後におっしゃったのが、
「いやぁ高円寺ありがとうっていうことぐらいだね。」
という言葉でした。
昔の喫茶店がなくなり、仲間たちが街を離れ、街並みも少しずつ変わっていく。それでも、レオさんにとって、高円寺はずっと大切な街だったのでしょう。
ジロキチの入っている高円寺ビルの5階から始まった、レオさんとジロキチのご縁。
あれから50年。2025年9月、ジロキチの50年を振り返るインタビューで、レオさんにお話を伺うことができた。あのとき、こんなにもたくさんの思い出を聞かせていただけたことを、今、改めてありがたく思います。
レオさんの言葉を通して、私もまた、ジロキチの長い時間を旅することができた。
これからもジロキチでは、毎晩いろいろな音楽が鳴り続ける。
高円寺の街には、今日もたくさんの人が行き交っている。
その街角で、ふとレオさんの姿を思い出すことがあるでしょう。
レオさんが愛した高円寺の街と、音楽と、人との出会い。
たくさんのお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。
どうぞ安らかに。
森本レオさん 2026年9月4日逝去

2025年9月5日 高円寺4丁目カフェにて撮影(インタビュー)