ごあいさつ

東京・高円寺にあるライブハウス Live Music JIROKICHIのMIHOです。
制作マネージャーとして、日々音楽がうまれる現場の裏方を楽しんでいます。

ここでは少しだけ、自分の生い立ちについてふれてみたいと思います。

わたしは1974年の晩秋、JIROKICHI(ジロキチ)の創業者である荒井誠の長女として、東京・高円寺に生まれました。ジロキチが開店する3カ月前でした。

30歳になる父は、娘の誕生とお店の開店準備で忙しくも夢と希望に溢れた日々を送っていたんであろうと思います。

父はよく幼いわたしをお店に連れていきました。そこでジャズやブルースを聴きながら眠りについていたせいか?今でもいい感じのブルースを聴いたりするとたちまち眠気におそわれたりします。(逆にいえば、眠れない夜にブルースを聴くといつのまにか寝落ちできてしまいます)

当時の高円寺の街並みや、商店街のおじさん、おばさん、お兄さん、そして今では高円寺の名物となっている阿波踊りのことをよく覚えています。商店街には、同級生のお父さんお母さんが経営している果物やさんや、喫茶店、きもの屋さんやお肉屋さんがあったりで、道を歩けば誰かに会う。今思えば、それは映画のセットのような光景。そして阿波踊りは今では1年のうちに1番高円寺にひとが集まる盛大なイベント。今も、お囃子のリズムが聴こえてくると胸が高まります。

そんな小学生時代半ばまでを過ごし、実家が八王子へ移りました。

家は丘の上にある新興住宅地で、山や牧場など自然が身近にあるところ。そこでのびのびと過ごしました。自宅のベランダからみる高尾山に沈んでいく夕陽や真っ赤な夕焼けが、今も目にやきついています。

こどもの頃の夢は、星や空を眺めていられる仕事(気象庁とか?天文学者とか?)がしたいと思っていました。それがいつのまにか、10代半ばでは「ジロキチで働きたい」に変わっていました。ところが新卒で就職した先は信用金庫。母はひと安心、父は予想外だったようだけど、喜んでいました。

その頃の父はといえば、世界放浪の旅へ。
父の放浪癖についてはまた別のところで書いてみようと思います。

信用金庫に勤める傍ら週末はPAアシスタントのバイトをしたり、バンドをやってみたりとなんとなく音楽のある生活を送りつつ、3年近く経ったところで信金を退職。
その後、人生のターニングポイントとなる出会いがあったのでした。

次に正社員となって働いていた職場(ゲーム関連会社)の同僚から、「今度うちの兄がレコードレーベルを立ち上げるので経理をやってくれないか」と声がかかったのです。そのときわたしは億単位の印税計算をする職務に就いていたのと簿記を習得していたことから、経理ができると思われたようです。実際、印税計算と経理の仕事は全く別物であったことを知るのは後になってから。「やる」と引き受けたからには猛勉強、経理とはなんぞを頭に叩き込み、いざ新会社設立のチームに飛び込んだのでした。それが2001年26歳のときのこと。

その新会社、東京とロンドンを繋ぐクラブミュージック専門のレーベル Third-Ear recordings(現 U/M/A/A)には、2009年まで在籍。この8年間はとても濃密で、今に繋がる出会いや、沢山の素晴らしい経験をさせてもらいました。特に、’02, ’04, ’06年に、レーベルが主催する、バルセロナのマルチメディア・アート&アドヴァンスド・ミュージックフェスティバル「Sónar」の東京版 「sonar sound tokyo」の制作に関わったことは貴重な経験でした。

それから出産・育児、一時休業を経て、編集プロダクションの制作アシスタントや、その後習得したスウェディッシュマッサージでゆるやかに仕事をする傍ら、その頃ディジュリドゥ奏者として活動していた父(荒井”ABO”誠)の宣伝担当としてWEBの制作やチラシの作成などを手伝い始めていました。やっぱり音楽に関わる仕事がしたいし、父の役にたてて嬉しい、楽しい、と思うそんな矢先、父が他界。2011年4月のことでした。

10代の頃から夢に描いていたジロキチで働くこと、それがこんなかたちで始まるとは思ってもみませんでした。

それから今日に至るまで、気が付けば7年。継いできたものを次へ繋いでいくためには…「書き残しておくことが必要かもしれないなぁ」そんなことを思うようになったのです。

これからこのブログでは、ジロキチの歴史といま、高円寺の街のことや周辺の出来事、海外見聞録などなど、マイペースに綴っていこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。

December 2018
MIHO